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教科書に載らない射水の歴史

更新)

将軍がやってきた町・放生津

射水に"幕府"があった!? 「放生津幕府」ものがたり

学校で習った幕府といえば鎌倉・室町・江戸の3つ。ですが実は今から約530年前、ここ射水市に「幕府」と呼ばれる政権があったことをご存じでしょうか。

その名も「放生津幕府(ほうじょうづばくふ)」。

新湊地区の放生津に、室町幕府の将軍・足利義材(あしかが よしき)が約5年半にわたって滞在し、京都とは別に幕府の政治を行っていたのです。

「放生津幕府」は、富山県を代表する歴史学者・久保尚文さんが2008年に提唱した言葉。近年は歴史ファンの間で注目が集まり、YouTubeの歴史解説動画では再生数100万回に迫る人気ぶり。テレビの全国放送でも取り上げられました。

きっかけは京都のクーデター「明応の政変」

時は1493年(明応2年)。応仁の乱が終わってまだ十数年、世の中が戦国時代へと転がり落ちていく頃です。

京都でクーデターが起き、10代将軍だった足利義材は将軍の座を追われてしまいます。これが「明応の政変」。日本史では、戦国時代の混乱を決定づけた大事件として知られています。

幽閉先を脱出した義材が向かった先が、越中の港町・放生津でした。

なぜ放生津だったのか? 実は計算されていた

 放生津八幡宮の拝殿(射水市八幡町)。放生津の町は石清水八幡宮の領地だった

「都落ちした将軍が、たまたま流れ着いた」──ではありません。義材が放生津を選んだのには、ちゃんとした理由が3つありました。

1 頼れる武将がいた

放生津城主・神保長誠(じんぼ ながのぶ)は、義材を支援する大名の筆頭家老で、戦上手として名をはせた人物。応仁の乱のきっかけを作ったともいわれる、戦国時代の幕を開けた武将です。

2 将軍家の"直轄領"だらけだった

放生津の町をはじめ、作道、大島の本開発、小杉の金山など、射水周辺には将軍家や、将軍家ゆかりの石清水八幡宮の領地がたくさんありました。いざとなれば年貢で暮らしていける──義材は自分の経済基盤まで考えて場所を選んでいたのです。

3 人と情報が集まる港町だった

当時、東海地方は戦乱で安全に通れず、東日本から京都へ向かう人は北陸道を通りました。放生津は海運の港町であり、街道の宿場町であり、内川の水運で飛騨ともつながる、東西日本を結ぶ情報のハブ。インターネットのない時代、これは大きな強みでした。

「日本のベニス」とも呼ばれる内川。530年前、ここが北陸の政治の中心だった

将軍が2人いる!? 権力が二つに割れた時代

義材はただ逃げてきたのではありません。幕府の役人およそ70人を引き連れてやってきました。だから放生津でも、幕府の文書行政がそのまま動いたのです。これが「幕府」と呼ばれるゆえん。

一方、京都では新しい将軍が立てられていました。つまり、日本に将軍が2人いるという前代未聞の事態に。大名家で兄弟が家督を争えば、兄は京都の幕府から、弟は越中の幕府から辞令をもらう──そんな時代です。

東北の大名がわざわざ放生津に立ち寄って義材にあいさつし、馬を献上していった記録も残っています。放生津は、各地の大名や使者が行き交う北陸の一大政治都市になっていました。

京都から一流の歌人や連歌師もやってきて、将軍のもとで歌会が開かれました。その記録は今も残っており連歌から生まれた「前句(まえく)」の文芸は、現在も射水市大島地区や塚原地区に受け継がれています。

 「放生津のにぎわい」を伝える展示(射水市新湊博物館)。地名の変遷も分かる

歴史のif ──「射水県射水市」だったかもしれない

将軍を支えたことで放生津の神保氏の力は突出し、周囲のねたみと主君・畠山家から警戒される羽目に。結果、神保氏は放生津から富山へ拠点を移し、越中の政治の中心も富山へ移っていきました。これが、現在の県庁所在地が富山市にある大きな理由といわれています。

ちなみに「富山」はもともと「外山」──放生津から見て呉羽山の"外側"にある町、という意味だったという説も。もし神保氏が放生津にとどまっていたら、今ごろ「富山県富山市」ではなく「射水県射水市」だったかもしれません。

もっと知りたい方は射水市新湊博物館へ。放生津城跡出土品や義材将軍の紹介コーナーがあります。▶ 次回:日本で二度将軍になった男・足利義材

協力:射水市新湊博物館

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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